戦後75年~引き揚げ者として生きた母

 

今日は終戦記念日です。

 

今まであまり書かなかったこと、

私の両親、特に今は会えない高齢の母について

書いてみます。

ちょっと長くなるかもしれません。

 

 

父は約20年前に亡くなりました。

母は93になり、この春から故郷熊本の

施設に入っています。

 

先日義妹がビデオ通話で対面させてくれました。

しばらく顔を見せていなかったので

私が誰だかよくわからなかったようです。

すべての記憶が曖昧になってきました。

 

今はもう昔の話を聞くことが難しく

母がもう少し若くて自分の話をしたがった頃に

しっかり聞いておけばよかったと後悔しています。

 

 

~~~~~~~~

 

 

私の父は朝鮮から、母は台湾からの引き揚げ者です。

 

両親の祖父母たちは過去に日本統治下の国に渡り

父も母もその土地で日本人として生まれ育ちました。

 

戦争が終わりたくさんの日本人とともに

わずかなお金と荷物を持って日本にもどったのです。

 

このとき母は思春期の多感な時期。

日本に向かう引き揚げ船の上で

初めて見る白い雪に歓声を上げながらも

どんよりと薄暗く冷たい空に

これから先の厳しい生活を予感したそうです。

 

 

父と母は人吉で出会い結婚し

異動で住居はたびたび変わりました。

母が私を産んだのは三角という港町。

数年前にこのあたりは世界遺産に登録されました。

この春、姉と一緒に遊びに行く予定だったけど

コロナで叶わず残念でした。

 

 

年をとるほど望郷の思いが強くなる人が多いなか

両親は一度も生まれ育った地を訪れたいと

言ったことがないのが不思議でした。

 

もちろん、昔住んだ場所がもう日本ではないから

当たり前かもしれないけど。

 

台湾は今も変わらず親日の国で

いつでも行こうと思えば行けるんですよね。

母は台湾での暮らしや、気のいい人々、

美味しい食べ物についてよく話をしていたので

懐かしい大好きな場所なはずなのに

 

私がいくら一緒に行こうと誘っても

「行ってもしょうがない」

という答えしか返ってきませんでした。

 

当時の同級生達との旅さえ断っていて

私には母の本音がよくわからなかったのです。

 

 

最近、たまたま夫が「湾生回家」という

台湾からの引き揚げ者(湾生)を描いた

ドキュメンタリー映画を観ていたので

私も一緒に観たのですが、

 

そのなかで一人の女性が話している言葉が

心に響きました。

 

「私はどこにいても異邦人だった」

 

今は幸せ。

住まいも家族も友人も、

楽しめることもある。

でも、自分はどこか他の人とは違う。

 

「どこにいても自分の場所じゃない」

 

行ってもしょうがないと思う母の気持ちが

なんとなく理解できたような気がしました。

 

日本に住みながら日本人ではない

生まれ育った国も自分の国ではない

 

引き揚げ者に対する差別を体験してきた母は

人に馬鹿にされまいと

いつも気を張っていました。

 戦争が終わっても母の戦争は続いていたんです。

 

 

こんなエピソードがあります。

私は入園児から家族以外と話せない時期がありました。

家ではおしゃべりなのに外に出ると

体が緊張し貝のように口が閉じます。

とにかく人が怖くてたまりませんでした。

これは小学4年の春まで続きました。

 

この時期、家庭訪問にやってきた

産休補助の新しい先生は

偶然にも母の台湾時代の同級生でした。

 二人はとても楽しそうに会話していて

私はこの翌日から学校で話すようになりました。

 

いつも気を張っていた母の心が緩んだのを

感じたんだと思います。

 

 

戦後75年、戦争体験者も少なくなり

戦争はもう過去のものになりつつあるけれど

私のように親が感じてきた世界を

引き継いだ人もいるでしょう。

 

私は母の不安を一緒に感じながら

得体の知れないものと闘ってきました。

でもそれはもう終わらせます。

重たいものはもう要りません。

 

私は争いごとが嫌いです。

まず自分のなかの闘いを終わらせて

心の平和を実現していきます。

 

 

今も母が生きてくれていることが有り難いです。

昔の記憶もなくなって

今は子どものように明るく無邪気な母。

 

コロナが落ち着いたら顔を見に帰ろう。

そんなことを思った終戦記念日です。

 

 

 

f:id:freshmomo:20200815224724j:plain

 

 

f:id:freshmomo:20200815224037j:plain

 2016年の暮れに夫と台湾を旅しました